任天堂の赤いファミコン
私が小学2年生の時に発売されました。
親の教育方針からか、なかなか買ってもらえず
友達の家に行ってやらせてもらったり
子供ながらに本当に肩身が狭い思いをしていました。
持っている友人が、それはそれは羨ましかったことを覚えています。
発売から2年経った小学4年生の時
何がきっかけだったかは忘れましたが、ファミコンを買ってもいいという許可が母からおりました。
まあ厳しい母親だったので、このチャンスを逃してはなるまいと
用事がはいっていた母の代わりに、叔母と一緒にダイエーに行くことにしたのです。
私はこの叔母が大好きでした。
厳しい母親とは違い、いつも私の味方をしてくれ、オモチャも沢山買ってくれるからです。
叔母は結婚しておらず、幼い頃から私を実の息子のように可愛がってくれました。
ずっと欲しかったファミコンがついに買える…
もう嬉しくて嬉しくて、叔母の手を引きながらダイエー5階のおもちゃ売り場めがけてエスカレーターを駆け上がりました。
途中、叔母が「4階で用事を済ませるから、先におもちゃ売り場へ行っててね。」と
「うん!早く来てね!」と叔母に声をかけ、5階のおもちゃ売り場へたどり着き、いち早く、ファミコンを見つけました。
するとどうでしょう…。残り1台ではありませんか。
発売されて2年経っていますが、当時のファミコン人気はなかなか下火にならず、入荷しては売り切れを繰り返していたのです。
焦りました。ものすごく焦りました。
叔母は4階にいる。どうしよう…。
店員のおじさんに話しかけました。
「あのぅ…。このファミコン買います!!」
相手は子供です。店員から「お母さんは?」と聞かれました。
叔母が4階で用事を済ませたら来ること、必ず買うことを子供なりに一生懸命説明しましたが、店員からは「お取り置きは出来ない。早い者勝ちなんだよ。」と
もう階段を転げ落ちるように、叔母を探しに4階へ向かいました。
鬼ごっこ以上に必死になって叔母を探しますが、全く見当たりません。自分の体から血の気が引いていくのがわかりました。
どのくらい時間が過ぎたのでしょうか…。まさかと思い、5階に戻ってみると、何故か叔母がいました。
叫びにも似た声で「どこにいたの!!!」と問うと、「用事を済ませてエスカレーターで登ってきたよ。」と
そうなんです。すれ違いです。焦るあまり私が階段を使ったので、エスカレーターで登ってくる叔母に全く気付きませんでした。
はっ!と残り1台のファミコンを見てみると、嬉しそうに手に取った子供がレジに持っていく姿が見えました。
絶望です。
この時の絶望は今でも忘れる事が出来ません。
結局、他の百貨店なんかもまわりましたが当然売り切れで
結局、その後数年間近く買ってもらう許可が再びおりず…
大好きな叔母でしたが
「叔母ちゃんが4階なんか行くからだ!」と激しく責め、しばらく口をきかなくなったほど不貞腐れて、叔母を悲しませた記憶があります。
そんな叔母が先週の土曜日に亡くなりました。
来月で76歳になる目前でした。
叔母の調子が良くないと聞いていたので、年末は少し長目の休みを頂いて実家へ戻り、叔母と一緒にゆっくり過ごしました。
1月下旬に急遽入院し、診断は末期の肺癌。
突然余命1週間を宣告され、私も慌てて長崎に戻ったりし、ここ最近は本当にバタバタでした。
ブログどころか、叔母が心配で何もする気が起きませんでした。
先週金曜の正午に容態が急変したと連絡があり、長崎へ飛んで帰って、土曜の明け方、最期は眠るように安らかに旅立ちました。
せめて看取ることが出来て良かったと思います。
特に趣味がない叔母でしたが、宝くじを買うのが好きでした。
年末、体が動かないから代わりに買ってきてあげた分
なんと30000円当選してました。
入院したての頃、病院のベッドの上で、辛そうにしている叔母に当選の事を話すと
嬉しそうに「へぇ…。今まで300円しか当たったことないのに…。」と言っていました。
趣味なのに300円しか当たったことないの?(笑)
退院したらこのお金で美味しいもの食べ行こうねと言うと
うんうんと嬉しそうに頷いていました。
結局、その約束は果たせませんでした。
今まで叔母と二人暮らしだった母の落ち込みようは見ていて辛く
これから一人暮らしになる母も心配です。
これ程までに親のことが心配になるなんて
私もそんな年になってきたのでしょうか。
落ち込んでばかりもいられません。
叔母の分まで、明るく強く生きるのが供養だと思います。
叔母と最後に交わした言葉は
叔母「ありがとう。」
私「大好きよ。またね。」
でした。
何だか人生って儚いです。
「何年生きたか」よりも
「どう生きたのか」の方が大事
そう考えさせられる叔母との別れでした。
私も遅かれ早かれ、あと数十年したら叔母の元へいきます。
その時は、宝くじの当選金で美味しいモノを食べて
あの時、買えなかった赤いファミコンを叔母に買ってもらおうと思います。
バタバタしていて気付かなかったのですが
Image may be NSFW.
Clik here to view.![]()
長崎ではランタンフェスティバルがおこなわれていました。
叔母も天国で綺麗なランタンを見ていることでしょう。
大好きな叔母ちゃんへ
いつも味方してくれてありがとう。
美味しい料理を沢山作ってくれてありがとう。
毎回、授業参観に来てくれてありがとう。
オモチャを沢山買ってくれてありがとう。
育ててくれて、本当にありがとう。
しばらくの間「またね。」
ではでは。
私が小学2年生の時に発売されました。
親の教育方針からか、なかなか買ってもらえず
友達の家に行ってやらせてもらったり
子供ながらに本当に肩身が狭い思いをしていました。
持っている友人が、それはそれは羨ましかったことを覚えています。
発売から2年経った小学4年生の時
何がきっかけだったかは忘れましたが、ファミコンを買ってもいいという許可が母からおりました。
まあ厳しい母親だったので、このチャンスを逃してはなるまいと
用事がはいっていた母の代わりに、叔母と一緒にダイエーに行くことにしたのです。
私はこの叔母が大好きでした。
厳しい母親とは違い、いつも私の味方をしてくれ、オモチャも沢山買ってくれるからです。
叔母は結婚しておらず、幼い頃から私を実の息子のように可愛がってくれました。
ずっと欲しかったファミコンがついに買える…
もう嬉しくて嬉しくて、叔母の手を引きながらダイエー5階のおもちゃ売り場めがけてエスカレーターを駆け上がりました。
途中、叔母が「4階で用事を済ませるから、先におもちゃ売り場へ行っててね。」と
「うん!早く来てね!」と叔母に声をかけ、5階のおもちゃ売り場へたどり着き、いち早く、ファミコンを見つけました。
するとどうでしょう…。残り1台ではありませんか。
発売されて2年経っていますが、当時のファミコン人気はなかなか下火にならず、入荷しては売り切れを繰り返していたのです。
焦りました。ものすごく焦りました。
叔母は4階にいる。どうしよう…。
店員のおじさんに話しかけました。
「あのぅ…。このファミコン買います!!」
相手は子供です。店員から「お母さんは?」と聞かれました。
叔母が4階で用事を済ませたら来ること、必ず買うことを子供なりに一生懸命説明しましたが、店員からは「お取り置きは出来ない。早い者勝ちなんだよ。」と
もう階段を転げ落ちるように、叔母を探しに4階へ向かいました。
鬼ごっこ以上に必死になって叔母を探しますが、全く見当たりません。自分の体から血の気が引いていくのがわかりました。
どのくらい時間が過ぎたのでしょうか…。まさかと思い、5階に戻ってみると、何故か叔母がいました。
叫びにも似た声で「どこにいたの!!!」と問うと、「用事を済ませてエスカレーターで登ってきたよ。」と
そうなんです。すれ違いです。焦るあまり私が階段を使ったので、エスカレーターで登ってくる叔母に全く気付きませんでした。
はっ!と残り1台のファミコンを見てみると、嬉しそうに手に取った子供がレジに持っていく姿が見えました。
絶望です。
この時の絶望は今でも忘れる事が出来ません。
結局、他の百貨店なんかもまわりましたが当然売り切れで
結局、その後数年間近く買ってもらう許可が再びおりず…
大好きな叔母でしたが
「叔母ちゃんが4階なんか行くからだ!」と激しく責め、しばらく口をきかなくなったほど不貞腐れて、叔母を悲しませた記憶があります。
そんな叔母が先週の土曜日に亡くなりました。
来月で76歳になる目前でした。
叔母の調子が良くないと聞いていたので、年末は少し長目の休みを頂いて実家へ戻り、叔母と一緒にゆっくり過ごしました。
1月下旬に急遽入院し、診断は末期の肺癌。
突然余命1週間を宣告され、私も慌てて長崎に戻ったりし、ここ最近は本当にバタバタでした。
ブログどころか、叔母が心配で何もする気が起きませんでした。
先週金曜の正午に容態が急変したと連絡があり、長崎へ飛んで帰って、土曜の明け方、最期は眠るように安らかに旅立ちました。
せめて看取ることが出来て良かったと思います。
特に趣味がない叔母でしたが、宝くじを買うのが好きでした。
年末、体が動かないから代わりに買ってきてあげた分
なんと30000円当選してました。
入院したての頃、病院のベッドの上で、辛そうにしている叔母に当選の事を話すと
嬉しそうに「へぇ…。今まで300円しか当たったことないのに…。」と言っていました。
趣味なのに300円しか当たったことないの?(笑)
退院したらこのお金で美味しいもの食べ行こうねと言うと
うんうんと嬉しそうに頷いていました。
結局、その約束は果たせませんでした。
今まで叔母と二人暮らしだった母の落ち込みようは見ていて辛く
これから一人暮らしになる母も心配です。
これ程までに親のことが心配になるなんて
私もそんな年になってきたのでしょうか。
落ち込んでばかりもいられません。
叔母の分まで、明るく強く生きるのが供養だと思います。
叔母と最後に交わした言葉は
叔母「ありがとう。」
私「大好きよ。またね。」
でした。
何だか人生って儚いです。
「何年生きたか」よりも
「どう生きたのか」の方が大事
そう考えさせられる叔母との別れでした。
私も遅かれ早かれ、あと数十年したら叔母の元へいきます。
その時は、宝くじの当選金で美味しいモノを食べて
あの時、買えなかった赤いファミコンを叔母に買ってもらおうと思います。
バタバタしていて気付かなかったのですが
Image may be NSFW.
Clik here to view.

長崎ではランタンフェスティバルがおこなわれていました。
叔母も天国で綺麗なランタンを見ていることでしょう。
大好きな叔母ちゃんへ
いつも味方してくれてありがとう。
美味しい料理を沢山作ってくれてありがとう。
毎回、授業参観に来てくれてありがとう。
オモチャを沢山買ってくれてありがとう。
育ててくれて、本当にありがとう。
しばらくの間「またね。」
ではでは。